※この記事は昔のパチンコについて、年上先輩に書いてもらった記事です。
パチンコとの付き合いは20代くらいからですから、もう50年以上になりますね。
私が最初にパチンコにとりついたのは、幼馴染の大学の同級生が、もう大人になったんだからパチンコくらいやらなければと。
そこで町のパチンコ屋に一緒について行きました。
その頃はまだ機械式で立ってパチンコを売っていたのです。
なかにいくつかの島がありまして、その箱状のなかに姉さんが待機していていました。
そこで球が出ないとかの異常があると、呼びだして、姉さんが治したりしてくれました。
そのころのパチンコは手で打って、上の真ん中に球が入るとおまけの球が数個出てきたのです。
そこで真ん中によく入る台を見つけることが大事なのです。
真ん中に入るのは釘が平行になっていないとなかなか入らないのです。
したがってその釘を打つ職人さんとの戦いです。
いかにいい台を見つけるかにかかっていました。
その頃にもプロみたいの人がいて、このくぎを最初は無駄球を打って、その釘を平行にしてしまうのだと。
これはもう技術ですね。プロの技です。
私たちが学生時代は1日立ってはじいていました。
結構体力がいりました。足腰が痛くなるのです。
私の街には5軒ほどのパチンコ屋さんがありました。
その頃はあまり多く出すと、その台は打ち止めという決まりがありました。
それで出たものはタバコ等に変えてくれたのです。
その後パチンコ屋から出てくると、昔のヤーさんの下っ端の兄さんが買い取ってくれたのです。
それで現金を手に入れることができたのです。
そのころのパチンコ屋さんは人情がありましたね。
あまり出ていないと、中の店員か社長さんか等がこの台でやりなさいと教えてくれたのです。
それで負けを少しは取り戻すことができました。
その後大学の同級生数人と東北地方に旅行に行きました。
静岡のプロ、名古屋のプロ、横須賀のプロと横浜の私です。
もうほとんど見なプロ級でした。
東北の都心に行ったときに歯数時間パチンコをやっていました。
それで儲けた資金で旅行をやったものです。
話は違いますが、パチンコの台には風車があります。
これを考案した人はえらいと思います。
この風車を入れることにより、球の動きが複雑になりより面白くなったのです。
それでその人はパチンコの普及のため、特許を取らなかったそうです。
特許を取っていれば、相当残していただろうと思います。
このおかげでパチンコも発展してきたのでしょう。
最初は子供の遊び道具が大人のギャンブルになって行ったのです。
そのころは女性は少なかったですね。
その後数年たち、座ってやるようになりました。
一番興隆したのは、液晶が発明され、コンピューターが入ってきたのです。
それで3つの数字が揃うと大当たりというのが発明されました。
これが今のパチンコの原因です。
この「777」の機種は衝撃的でした。球が大きな箱一杯に出てくるのです。
また座ってやって、球も自動で出てくるようになったのです。
それで素人も普通に遊べるようになりました。
そのころからです。女性陣も入ってくるようになりました。
そこで結構ギャンブル的になってきましたね。
儲かるときもすごいですが、また負けるときもすごいです。
女性が今晩のスパーの買い物代金をつぎ込んでしまって、立ち番をして、男を誘っているのがあったとか。
またあまり熱中して、駐車場に幼児を置いておいて、いまでいう熱中症で死なせたのもニュースにかなり出ていました。
そのころからです。パチンコ依存症という言葉が出るようになりました。
私が熱中したのは30代くらいの時ですね。
私は下戸だったので、唯一の趣味になりましたね。
これは一人で遊べるのがいいですね。
誰に気兼ねなく遊べます。
私は会社の帰りの最寄りの駅前のパチンコ屋に大分通いました。
またその頃はタバコも吸っていたので、カップコーヒーを飲みながら、タバコをふかしているのが至福の時でした。
私が好きだったのは、「海物語」です。
この機種は平和という会社のもので、名器と言われていました。
その後何回も変わっていますが、いまだにその機種は健在です。
新しい趣向も入っていて、わくわく感もあります。
また「777」が出た時は、鼻高々です。十数箱出したこともありました。
こういうことが球にあるからやめられないのです。
いまはもう年金生活になって、いまは1円パチンコです。
これはただの時間つぶしの遊びです。
ほとんど儲かりません。
ただ1週間に何回か通っていると、知り合いもできます。
コヒー缶やお茶をやりとりすることもあります。
昨日の戦績とか情報のやり取りをやっています。
まあ1年を通せば、大抵マイナスです。
まあ道楽の経費だと割り切っています。
タダあまりのめり込まないようにはしています。